2018年に、大学院国際健康開発研究科10周年を記念する冊子(もしくはそれに類するもの)のために依頼されて書いた文章です。この記念誌が本当に刊行されたかどうかも知らないので、長らく日の目を見ないままでした。しかし、久しぶりに読み返してみて、国際保健やグローバルヘルスで人類学をやることについての感じ方はほとんど変わっていないことに驚きました。英語版はそのうち作成します。(2018年に執筆した原稿を、すこし手直しして掲載します。)
In 2018, I wrote this piece for a commemorative booklet marking the 10th anniversary of the Graduate School of International Health Development. I'm uncertain if this publication ever saw the light of day, so it has remained largely unseen. However, when I recently revisited it, I was surprised to discover that my views on conducting anthropological research in international and global health have mostly stayed the same. An English version will be prepared later. (The text here is the original draft from 2018, with slight modifications.)
異界のフィールドワーク
国際保健で仕事をすることの収支決算
増田 研
10年間の帳尻
いま、これを書いている2018年はちょうど、国際健康開発研究科(以下、MPH)が発足して10年目の節目の年である。そのMPHが部分的に引き継がれた(いや、MPHが上手いこと吸収されて「部分」となったのだ)熱帯医学・グローバルヘルス研究科(以下、TMGH)は今年、4期生を迎えている。通算でいうと、11期生になるのだろうか。
私にとっては、この10年はちょうど、40歳代をまるごとカバーする時間だった。MPHの1期生が入学してきたとき、私は40歳になり、つい先日50歳になった。研究者としてはわりとアクティブな時期であるはずだったが、じっくりと何かに取り組むというよりは、次から次へと現れる難敵を蹴散らし続けなければならない、ルールの分からないゲームに放り込まれたような10年間だった。
MPHを部分として取り込んだ新研究科(TMGH)が発足してからというもの、MPHを引き継いだ国際健康開発コースに所属する学生は毎年20人近くになっている。もうかつてのように、学生一人一人の顔と名前を一致させることは困難で、一度も会話を交わさないまま修了していく人のほうが多いくらいだ。どの学生が、どんなテーマに取り組んでいるのかもフォローしきれない。つまり、TMGHに対する私の所属意識はそれほど高くない。規模が大きくなった分、教員一人一人の関与の度合いは小さくなってしまって、もはや顔の見える関係ではなくなってしまった。
とはいえ、所属意識を高く保てないのは、しかし、いまに始まったことではない。それはMPH発足当初からいまにいたるまでずっと続いている構造的課題なのだ。
だってそうでしょ。元々キャンパスが別で、MPHで日常的に起きている出来事からはつねに隔絶した情報砂漠の住人。人類学とか民族誌とか質的研究などにまったく関心のない学生のほうが圧倒的にマジョリティーなのも相変わらずなんである。
大学組織の面から言えば、人類学者は、「他の部局から足を伸ばしてきてもらう分にはかまわないけれど、専属でばりばり関わってもらいたいわけではない」というくらいの扱いで、これもこの10年間変わらないままである。自分が指導している学生の研究が、私の知らないところでまったく違う方向に展開している、なんてこともあった。
坂本キャンパスの社会構造とマインドセットは「士農工商社会だが、実力主義」という矛盾したものである。人類学者はそうした社会構造においては「ランク外」の階層にある。そもそも育った土壌が違う。私はランセットにもプロスワンにも論文を投稿したりはしない。つまりリスペクトの対象ではない。
MPHでは文化・医療人類学は必修の2単位科目だったが、医療系バリバリの学生のなかには、人類学の授業を受けさせられるのを苦痛に感じている学生もいたにちがいない。医療多元論とかイーミック・アプローチとか、ちんぷんかんぷんで実感も得られない人が多いはずだ。その証拠に、TMGHになって2分割された医療人類学の「2」のほうは、選択科目になったこともあって受講生は少ない。つまり、MPH候補生にとって人類学は「お付き合い」程度の相手なのである。
かように、保健系大学院において、私は居心地が悪い。仲良くしてくれる同僚教員や学生がいたとしても、このキャンパスの社会構造には私の居場所はないのだ。
MPHに関わってからの10年間、私の心の収支決算はマイナス気味である。
異界のフィールドワーク
いろいろなところで、ことあるごとに証言してきたことだが、この研究科に私を引き込んだのは門司和彦先生(とその背後にいた片峰茂先生と青木克己先生)である。ある日、門司先生から浜口の飲み屋に呼び出された私は、新しい研究科の構想を打ち明けられ、参画を促された。決断する権利は私のほうにあったが、ちょうどその頃、大阪の国立民族学博物館で進められていた「開発と少数民族」なる研究会に門司先生と一緒に通っていたこともあり、あまり深く考えることもなくMPHへの部分的移籍を決めたのだった。いま思えば、民博の研究会に誘ってもらった(というよりは、大阪に飲みに連れて行ってもらった)のは、私をMPHに引き込む戦略の一環だったわけだ。
新しい国際保健の大学院に人文社会系教員をいれるべきだと考えた門司先生の慧眼は素晴らしい。これは国内の他の類似大学院にはない発想で、実際のところ、2018年の現時点にいたるまで、国際保健系大学院で人類学者を専任教員として登用している大学院は、日本国内には他にひとつもない。
換言すれば、私は日本の国際保健業界においてははじめから「オンリーワン」だったので、そのせいか、この分野のお座敷にはよく声をかけてもらっている。日本国際保健医療学会の学生部会などは、私を3回も講師に呼んでくれた。これは、私自身のセルフプロデュースという点では悪い話ではない。人類学の学会にいけば「私、国際保健業界で働いているんです」と言って差別化できるし、国際保健医療学会では「珍獣・人類学者」として大事にしてもらえる。
ところが。
この大学院が始まってみると、そこには違和感しかない。違和感の一例は「エム・ピー・エイチ」という言葉だ。
私はこの大学院がスタートする数ヶ月前から設立の準備会合などに参加してきたが、実際に始まってみるまで「MPH」という言葉を聞いたことがなかった。初めて耳にしたのは、開校の懇親会かなにかの席でのことで(2008年4月8日の午後だ)、MPHが「公衆衛生修士」の意味であることに気づくのに、さらに数日を要した。
どうもこの分野の人々は略語が好きらしい。MOH、WHO、JICA、U5M、MMR、TFR、FP、MDGs、ODR、PPAP・・・・・・。ここで教え始めてから私の脳内メモには新しい単語がたくさん増えた。ちゃんと聞き取れている保証もない略語がたくさんメモされ、業界で飛び交う会話のなかから意味を探っていってようやく了解できるようになるというあたり、私のMPH体験はまさにフィールドワークである。
違和感の根源には、ほかにももっといろいろなことがあった。たとえば、医療や保健系の論文がやたらとページ数が少なくて、英語が単調だったのも驚きだった。MPHの初期には、医療人類学の英語の書籍を輪読する会を数回開催したのだけれど、主に医療系の学生たちが意外にも英語の本を読めない! という事実を発見したときには心底驚いた。理由は、人類学の文章が一文3行以上あったからである。この発見のほかにも、いろいろな経験があって、私にとっての医療・保健系の人たちに対するステレオタイプは「長文が読めない人々」となった。
この手の違和感については、書き出したらキリがない。(古今書院から出版した書籍『フィールドの見方』(増田研・椎野若菜・梶丸岳編、2015)に「国際保健と人類学のツンデレ関係」という文章を書いたのでそちらをご覧いただきたい。)
どんな学問にも、確立された方法論と問題意識の自己規制がある。私のような人類学者は顕微鏡をのぞかないし(そういう方法を学んでいないのだ)、カエルの産卵数を数えたりもしない(人類学なので)。でも、「自分の生きてきた世界以外に、ほかの世界があることなど想像したこともない」人々がこれほどたくさんいる世界があろうとは、MPHに参加して、坂本キャンパスに足を運ぶようになるまでは知るよしもなかった。
私の40代は、こういう他者不在状況と戦ってきた10年間であったように思う。
学生のプロデュースを引き受けること
そうはいっても、MPHでの仕事にはやりがいはあった。
MPHでやりがいを感じさせてくれたのは、学生たちである。学生は「やる気を失わせる」原因もたくさん作ってくれたが(一つ一つを思い出すと腹が立つので止めておく)、全般を見渡してみれば学生指導は楽しかったと言える。いまでも思い出すのは一期生たちと医療人類学文献(ただし日本語)の読書会をしたこと、数年にわたって「アフリカ超入門講座」を開催したこと(6時間くらいかかるので、夜半に尾崎鮮魚店から差し入れが届いたことがあった)、それに、半日がかりの「インタビュー実習」をやったこと、などだ。MPHは少人数だったこともあって、こういう番外の授業機会にインタラクションの機会を持ってお互いをよりよく知ることも出来た。
ただ、こういうことが出来たのも4期生くらいまでで、そのあとは私が多文化社会学部の創設で忙しくなってしまったこともあり、「知らない学生」が増えて行ってしまった。
MPHで私が主指導を担当したのは10人だったと思う。研究科そのものが国際保健という業界と直結しているためだろうか、この10人とはいまでも連絡を取り合えている。一人一人がどんなふうに研究課題を設定したか、プロポーザルの執筆のどの辺りで苦労したか、フィールドがどんな場所であったか、といったこともわりと細々と思い出せるし、論文指導の苦労も……身体が覚えている。
2010年2月28日の夜は、熱研1階リフレッシュルームで徹夜し、翌朝7時に一時帰宅して、風呂につかりながら寝てしまった。そういう身体記憶は、忘れようにも忘れられない。
多くの学生が私のゼミ——MPHのみならず、環境科学部、多文化社会学部からも——から巣立っていったが、とりわけMPHでの学生指導には「プロデュース」という感覚がある。その学生がどんなバックグラウンドを持ち、何を目指しているのか、ということをくみ取って方向付けをするプロデューサーの役目が、MPHにおける私の仕事だったのだ。もちろん、私のプロデュース能力などたかが知れているし、私自身が業界人ではないから売り込みなどもできない。人類学者が指導する研究など、この業界ではあまり相手にされないかも知れず、ましてや、仕事ではあまり役立っていない可能性のほうが高いのだ。
そう考えると、私自身が「国際健康開発研究科の帳尻勘定」をする以前に、学生たちの損得感情を知る方が大事な気もする。
増田のせいでろくな学生生活じゃなかった、人類学者の指導を受けたって私の市場価値は上がらない! なんて思われているとしたら、やっぱり帳尻、見合ってないんじゃないかなぁ。